オンライン連載小説「リバウンド」

オンライン小説『リバウンド』-009 ビール、スシ、サケ

研究所のエントランスを出ると青く高く広い空のずっと遠くのほうがオレンジ色に染まっていた。頬に乾いた風を感じる。Tシャツが軽くて気持ちいい。ドクターはスモールエクササイズだと言って、いきなり広い道を反対側まで駆け足で渡った。ぼくはあわててついていくと足がもつれそうになった。おいおいぼくは患者じゃないのか?そのまま信号のあるブロックを3つほど通り過ぎて、しっくい色のペントハウスの1階にあるスシや?に入った。

ドクターは奥のカウンター席にどかっと座るとすぐに生ビールと言った。板前さん(たぶん日本人)が細長く背の高いグラスにビールを注いだ。ドクターはのどを鳴らしてビールを飲んだ。ぼくもそれに習った。長いうつうつとした気分となんだか生まれたばかりのような気分が混在して毛細血管にしみわたった。どっちの気分を採用すればいいのかわからなくてへんな気分。
店内は金色と赤と黒の装飾でスシやというよりレストランバーのような感じで、日本なのか韓国なのか中国なのか判断のつかない調度品が並んでいた。アジアンエスニックのひとくくりなのだろうか。なんとも奇妙だけどなんとなくほっとする。清潔で希望のあるにおいがした。テーブル席にはスーツの男性3人組みと、カジュアルなカップルがいた。目が青くて白いヒフに金色の毛が生えている彼らは『ワイプ』になることはあるのだろうか?『セラ』を塗るとあの白いヒフは何色に成るのだろうか?リバウンドになったら何色の滲出液が流れてくるのだろうか?それでもああいう風にスマイルでいられるのだろうか?ここはガクダイの駅前ではない。ぼくは時間と場所と自分の気分に本格的に混乱しはじめた。ほんのさっきまで暗くてじめじめした塹壕にいたのだ。迫撃砲が空気を切り裂く音、着弾し土にめり込む破裂音が耳を覆いはじめる。どこを撃たれたかわからないが出血していて寒気がする。ケロシンとさびた鉄のような血のにおいが身体にまとわりついている。どこにも逃げ場はなく軍医はとっくに死んでいて、銃には弾がなく、無線機は破壊されていてざーというチューニングノイズをずっと発したままだ。ぼくは耳をすます。ノイズの底から低くミュートされたトランペットのソロが聞こえる。生まれたての悲しみのように冷たくやわらかい。マイルスの狂気はぼくを正気にさせる。

ドクターが板前さんとさしみの話をしつつ(あんたは日本人か)、はしを上手につかってマグロ(たぶん)を口に運んでいた。さっきは自分の症状が生まれてはじめて否定されなかった。このとなりの男と白衣の男女に人間として扱われた気がする。ぼくはそのことにはげしく驚いていてまだうまくなじめないでいた。怒ればいいのか感謝すればいいのかそれとも泣けばいいのかわからない。とりあえず彼につられて生ビールを飲む。ものすごくうまくてこんがらがっていた毛細血管がほどけてなんだかどうでもいい気分になる。さらに飲むとますますどうでもいい気分になった。その勢いでぼくは診察室にいるときからずっと聞けなかったことを聞いた。
「もしかして、ぼくは死なない?」
「は?」
おまえはほんとーにめんどくさいなーとかぶりを振った。
ぼくは残りのビールを飲んで、さらに勢いをつけた。
「もしかして、ぼくは治るの?」
ドクターは興味なさそうにうなずいてビールを飲んだ。そしてたぶんなと言った。
「たぶん!」
ぼくは思わず大きめの声をあげてしまい、カウンターの椅子から落ちそうになった。板前さんがアーユーオーケー?と言った。ドクターは肩をすくめてサケ、あーハッカイサンと言った。いまでは、マイルスのトランペットがシャウトしている。ピアノとドラムの縦の隙間を、息をつぎながら強く、音を外して、なんどもシャウトしている。マイルスの狂気はときどきぼくの意識を救う。ドクターは板さんに竹のとっくりから竹の杯にサケをついてでもらっている。おっとっと。カップルの男性の方が白身のにぎりを口に入れコーラを飲んだ。(うーん)。派手なブルーのネクタイをしたビジネスマンがフォークでさしみをつついている。たぶんと言われたのは初めてだ。これまでたぶんとさえ言われたことがなかった。彼のたぶんとは上手につきあいましょうの延長線上ではなく、普通に可能性があるという方のたぶんなのだろうと感じた。それは単に生ビールの酔いかも知れないが、神経伝達物質が気持ち良いことは良いことだとメッセージを送ってきた。ぽかぽかした陽気に誘われてマフラーと重いコートをとる感覚に似ている。抵抗のしようがない。
ぼくは急に腹が減っていることに気がついた。さしみに手を伸ばしてわさびとしょうゆをつけて口に運び、冷たいサケを飲んだ。いりまじった味と温度と感触が脳を刺激する。ドクターはホタテに慎重にレモンを絞っている。
「ぼくは死ぬとこだったんです」
「知ってる」
ドクターはそう言ってレモンを置くとナプキンで手を拭いた。そしてホタテをひとつ口に運ぶとサケを飲んで目を細めた。
「知ってる?」
ぼくは杯を置くともう二度と聞けなくなる気がしてそのまま待った。ドクターは竹の杯にサケをなみなみそそいでこっちを向いた。
『セラ』
どこにいるのかわからない感と時差ぼけと生ビールとサケのいい感じの酔いが一気に醒めた。その単語は店内の喧騒と雑踏を消した。浸出液とヒフの残骸と血のにおいと永遠の痛みの記憶がよみがえった。背中が冷たくなる。息がすえない。ドクターはぼくの顔をじっと見ていたが、やがてゆっくり微笑むとぼくの杯にサケをついだ。
「まあ飲め」
ぼくは竹の杯をしばらく見つめた。背中が凍りついている。ドクターに肩をぽんとたたかれ我に返った。一呼吸して一気に飲んだ。冷たいサケがのどを通り毛細血管にじんわりと染みわたる。店内の喧騒が一気にもどってきた。洪水のようだった。

2021.6

 

quintonwu / Pixabay

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