帰国したぼくは落ち着かなかった。包帯がいらない新しいヒフ。引きつる痛みがないヒフ。わるくない気分にうまくなじめなかった。胸の内に言いようのないさざ波がたっている。ポートランドから帰ってきてからいつも胸の内が寝食されていた。でもそんなことにかまっていられなくて、滞納している家賃を分割にしてもらうことを大家さんにお願いすること、何枚もドアにはさまれていた光熱費と水道代を当面どうやって払うか考えることが急務だった。
土曜日の午後、ビサに誘われてシブヤでティムバートンの映画を見た。自分は腹が立っていると気がついた。少し救われた気分になる。東横線の窓から見える風景はいつものごとく絵に書いたように裕福そう。この世界には理不尽や矛盾など何もないかのようだ。
「バカじゃない」
ビサは眉をつりあげてぼくを見た。
そうバカなのだ。病気が治ったのだから会社に戻って働けばいいのだ。それがまともな大人の考えであることはわかっている。
「なんで会社やめたのよ?」
電車の手すりにつかまりながらビサが口を尖らせた。
「なんでかわかんないんだ」
「わかんないじゃないでしょ子供じゃあるまいしどうやって家賃払っていくのよ?」
理系女子には論理的な説明が必要だがぼくは自分にも説明ができていない。いいわけがおわらないうちにガクダイに着く。駅前の大きなイチョウの葉が黄色く染まっている。時折吹く木枯らしが落ち葉を舞い上げた。都会の秋は急に深まる。
ぶ厚いクロックムッシュと熱くてうまいコーヒーのあるキツサテンにビサを誘った。彼女はある種の食べ物に弱いのだ。ちょっと前までは街の要所要所にあった狭い階段を上がって行くタイプの目立たないキツサテン。高校の時、はじめて女の子としけこんだようななつかしくきゅんとなる感じ。周囲にスタバやタリーズがあるにもかかわらず生き残っている。
「ここって貴重な感じね」
ドアを開けるとカランコロンと音がした。口の細いやかんがいくつか火にかかっていてちんちんと音をたてている。席にむかって歩くと乾いた床がコツコツと気持ちよい音で鳴る。ワックスで明るい臙脂色に磨かれている。ひかえめにクールなトランペットが流れている。会社に病欠の電話をした後どこにもいくところがない時期が何年も続いた。狭い部屋でヒフのひきつりと痛みにむきあっているとほとんど気が触れた。ふらふらと駅の近くまで来て健康そうに歩く人や動く電車やキオスクに積まれた新聞の見出しを眺めて、自分とはまだ正常なのかと確認せずにはいられなかった。顔まで包帯を巻いたかっこうで来ても小柄なマスターはずっと何も聞かないでくれた。彼がネルドリップで入れてくれるコーヒーは熱くて香ばしくひといきをつくことができた。厚くてバターがたっぷりのトーストは現実世界の良い部分の味がして、まだ生きいるのだなと思えた。
「ほんとうは好きじゃないような気がしたんだ」
「広告の仕事?」
ビサは両手でコーヒーカップを持って手を暖めていた。
「アイディアを考えたりするのは好きなんだけど、あ~、なんて言うか、誰かにあれこれ言われて何かを創ったりしたくないって思っちゃったんだ」
「ふううん」
ビサはコーヒーを一口飲んだ。
出窓にピンクの鉢植えのシクラメンが置かれている。冬の深い角度のオレンジ色の陽が窓から差し込んでいてぽかぽかとした。わけのわからないいつおわるとも知れない苦痛に1日を左右されず、普通にこうしていられることは信じられないほど心地よかった。でもまた、さざ波がやってくる。ぼくは先を急いだ。
「一回死んだようなものだし、なんかもっとましな、えー、誰かの役にたつことなんかをやれたらなーとか思うんだ」
「ふううん」
ぼくはさざ波について話した。できるだけ正直に。
「真実を知ってしまってどうしていいかわからないってこと?」
「毎日ドロドロで、医者には怒られ、民間療法に金を使って疲弊して死ぬことばっかり考えてる患者が大勢いるのを知ってるんだ」
ぼくはちょっと熱くなった。
ビサはクロックムッシュのひとかけらを口に入れて念入りに噛んでいる。ぼくはとっくに食べ終わっていてコーヒーも飲んでしまっていた。ビサはよく噛むし食事を楽しむ。
「それは罪悪感について言ってるの?自分だけ治って悪いなとか思っているわけ?」
ビサは紙ナプキンで口元を軽く拭くと続けた。
「自分だけ治ってわるいななんて思っているとしたらあなたはほんとに救いがたいバカよ」
さざ波はももから腰ぐらいに上がってきてインサイドで音を立てて割れた。ビサは健全で大人である。税金も年金も払っていてぼくよりはるかにまともなのだ。
「あのまま気が狂ってどこかの暗い部屋に入れられているのと、ここでこうやってのんびり彼女とコーヒーを飲んでいるのとどっちが気に入るの?」
ぼくはビサの首にぶらさがっているクロスのチェーンを見ながら白いむねを想った。ぼくはこれまでの人生の時間のほとんどをややこしい病気とその対処に使ってきた。なんとかこの世に対応するために、その度に何枚もつくろいを鎧のように重ねて生きてきた。突然それらの必要がなくなったのだ。ぼくは生まれてはじめてむき出しの自分に触れている。ビサの黒いまっすぐな目がまぶしく痛い。目の前の小さなテーブルがなければ押し倒してセーターに顔を埋めてごまかしたい。たぶんビサはそれを知っている。目をそらしてじいっとシクラメンを見てる。カランコロンと音がして、若いカップルが入ってきた。男子はいまどきの短めのヘアカットにえりの大きな紺のコートを着ていた。屋外のスポーツをしているのだろう顔がよく焼けていて白い歯が目立つ。コットンのトートバックを肩に格好良くさげていた。ぼくはどうしたらそんな風に生きれるのかさっぱりわからなかった。さざ波が大きめのうねりとなってやってきた。ぼくはなすすべもなく波にもまれた。泳げないわけではない。ただ、なんとなくどうでいいような気分で波にもまれた。打ち付ける波の音、ボコボコと響く水の音。根から抜けたワカメのようにしばらくもまれた。海面に顔があがる。ぼくのいのちの呼吸の音がする。こうしていてもとりあえず生きている。悪くない。スクリーンの中でジョニー・デップが、「そんな自分がすき」と言った。
「ドクターボノにメールを送ってみるよ」
「ふむ」
「日本語のWEBをつくっていいかって」
「あら」
「うん」
ビサはうわーと目をぱちくりした。
となりの若いカップルが小さな赤い包みをを交換している。もうすぐクリスマスなのだ。
「クリームがたっぷりのった熱いココアでかんぱいしよ」とビサが言った。
ぼくはレモンを切っていたマスターにそう告げた。
「悪くない」
「悪くないわ」
大きめのマグカップでふうふうと飲む熱いココアは波を落ちつかせた。
2人は静かに楽しくココアを飲んだ。
2021.9

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