オンライン連載小説「リバウンド」

オンライン小説『リバウンド』-010 ドクターの告白

ぼくは冷たいサケで酔った。もう尻が座っていない。とりだしたファイルをどのフォルダしまっていいのかわからない。何を質問していいのかわからないし自分が何を聞いたらすっきりするのかもわからない。ピクチャーウインドウから雨が見える。といっても時々雲の切れ間から細く夕日がさす。(ぜんぶありなんだ)。その度に店の中が明るくなったりくらくなったりする。いまでは、喧騒の洪水をトランペットが切り裂き、その残骸ををチョッパーベースが蹴飛ばしている。ギターは先を急いでいて、スネアがなんとか縦に秩序を取り戻そうとしている。
「知ってる?」
ぼくは聞いた。
ドクターは、わかったよおまえのそのややこしさに少しつきあってやろうじゃないかと目じりをさげた。
「90%」
「90%?」
「間違った投薬によ症状だ」
「は?」
ぼくは円グラフを思い浮かべた。それはスイカでもピザでもほとんど全部だ。
「残りは?」
『ワイプ』
ドクターはサケをもう一本板前さんに頼んだ。
「10%?」
「イエス」
ぼくは、今ではたぶんもうまともにトイレにも立てないかもしれない。今日はどこに泊まるんだっけ?
「ほら飲めよ」ドクターは竹のとっくりを持ち上げた。
これ以上の冷たいサケはたぶんキケンだ。ぼくは竹のとっくりを手で制して瓶ビールにした。小さなグラスに自分で注いでぐいっと飲んだ。きんきんに冷たかった。異国で見るスーパードライのラベルはいかしてるかも。
ドクターは竹の杯を持ったまま話しはじめた。
「『セラ』は強力なピンポイント消火器だ。原因には関係なく炎症が治まる魔法の薬として重宝がられた」
「・・・た?」
「消火器はいつまでたっても消火器だ。火の元を消すことはできない」
ぼくはむねがざわざわしはじめた。
「やっかいなことにこの消火器は体内に深く浸透する。そうすると体の消火機能が止まる、耐性がつく、消化強度をあげ続けなくてはいけない」
ドクターはかぶりをふった。
「それでどうなるんですか?」
ドクターはぼくに向かってあごを上げた。
「火が広がって手がつけられなくなるな。おまえはどうなった?」
ぼくはガクダイのアパートの陽に焼けたドアをそっと開けた。包帯とガーゼとヒフの残骸、四六時中したたり落ちる黄色く鉄臭い浸出液、バスルームの鏡に映るケロイド状の顔、粘膜が服とこすれる痛みとヒフが割れる痛み、仕事に行けない悔しさ、社会から蓋をされた廃人ような自分、長い待ち時間にうなだれる待合室、目も合わせずに診察する医者の嘲笑、患者ではない人のすすめるありとあらゆるなんとか療法やこれが効く商品が映像となってめぐった。映像には薄まった血の匂いがべったりとくっついていた。ぼくは今ここにいる理由を思い出して猛烈に吐き気がしてよろよろとよろけながら椅子から降りてトイレにむかった。ぼくはここで特別な重症患者としてドクターにしかめっつらであつかわれ、窓のない部屋に隔離され、いくつもの点滴に繋がれて、ナースがひっきりなしに来てカルテに何かを書いているような状況を望んでいた。それは程なく「残念ながら・・・」と前ふりをともなって語られる言葉に繋がっていると期待していた。今、酔っ払ってアメリカのでかいトイレにいる。ぼくは長い小便をした。手を洗いながら鏡をみると顔に包帯がない。ヒフにに痛みがない。わけがわかんない。そこにはただの酔っぱらいの男がいた。
「アメリカでもミステイクの時代があったよ」
ドクターがぼくの目を見て言った。
「我々は学んだのだ。医学とは進歩するものだ、そうだろ?」
ぼくはゆっくりとうなずいた。
「もっともシリアスなのは苦痛に対処するために神経伝達物質が出っぱなしになってしまうことなのだ」
ドクターは右手の人差し指をこめかみにあてた。
「24時間続く強い苦痛に対処し続ける。だから必要に手がまわらなくなる。眠れず、神経が破損する」
ぼくはうなずいた。
「当時アメリカでは『セラ』への依存と離脱をくりかえした若者の多くが発狂して自殺したよ」ドクターが言った。
いまでは、店は混んでいて人々の話す声で騒がしかった。仕事が終わった最初の一杯を求めてくるものや、ローカロリーな食事を好むもの(たぶん)でにぎわっていた。カウンターに並んで座っているドクターとぼくは久々にあった父と息子に見えるのかもしれない。ドクターはナプキンで口の周りを拭くとしばらく黙った。カウンター越しに板前さんの姿を見ていたが何も見ていなかった。
「おれのパパはおれが10歳の時、治療施設にはいった。ナースが目をはなした隙にシーツで首をつった。それで家族はばらばらさ」
ぼくは彼を見ているのがやっとだった。
「そしておれは医者になろうと決めたんだ。ベトナムに行きたくなかったというのが本音だけどな」
そう言うとドクターは杯を目の高さに捧げてからきゅうっと飲みほした。ぼくはじっとりと生ぬるい汗が背中を流れるのを感じた。胃の底がざわざわしたがそれが何であるかを考えるにはビールとサケを飲みすぎていた。いまできることはなんだ?たぶんもっと酔っぱらうことだ。ドクターも同感のようだった。
そうした。

2021.6

chaliceks / Pixabay

 

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